『絵の中の盗賊』

絵の中の盗賊

休日のダイニングキッチン

 風船のように膨らんだその丸顔をはじめとして、望月氏のダイニングキッチンには円が氾濫していた。白いテーブルはコンパスで描いたような美しい円形で、その上には朝食の目玉焼きとドーナツが並んでいた。望月氏の向かいに座った九歳の娘は、白地に赤い水玉模様のワンピースを着て、真ん丸に開けた口でドーナツを頬張っている。残る一人、奥さんは流しの側にいた。娘のワンピースと同じ生地のエプロンを身につけ、サイフォン式のサーバーでコーヒーを淹れていた。さっきからずっと望月氏に背を向け、自分の髪型そっくりなフラスコとにらめっこしている。部屋の天井からは花柄の笠をつけた電球がぶら下がっていたが、スイッチは切ってあった。外がよく晴れていたのだ。話し相手はいなかったが、望月氏は気分が良かったようで、もともと丸い顔をいっそう丸くして微笑んでいた。

 望月氏は部屋の片隅にある小さな戸棚に目をやった。そこは望月氏が自分のコレクションを貯めておく場所で、ここにあるアンティックな品を眺めるのが、休日の何よりの愉しみだった。ごく狭い面積にチマチマと絵や文字が印刷されたマッチのラベルや、成型技術が不十分で、ちょっと形が歪んでいるジュースの空き瓶や、題名も役者も聞いたことのない古い白黒映画のパンフレットなど、家族はガラクタだと思っているらしいが、それらの品は確かに、望月氏の美意識によって統一されたコレクションだった。
 望月氏は立ち上がると、その戸棚から一枚の黒い円盤を取り出した。円盤は箱の上で回転し、部屋に陽気なジャズミュージックを流しはじめた。
「やっぱり音楽はレコードで聞かなくちゃ、ねぇママ」
望月氏は奥さんに話しかけた。奥さんは振り向くことなく言った。
「そうですね」
レコードは跳ねるようなピアノの音を室内に振りまいている。
「音が柔らかいっていうのかなぁ。ランプの灯りって心が落ち着くじゃない。あれと同じ感覚なんだよねぇ。ママはどう思う?」
「そうですね」
もはや会話になっていなかったが、望月氏は話を続ける。
「それと、今、気が付いたんだけど、レコードっていくら回転しても円のままなんだねぇ」
奥さんは、もう何とも答えなかった。実に下らないし、今のはただの感想だから答える義務もない。それに、やっとコーヒーを抽出し終え、マグカップに注いでいるところだったのだ。
 奥さんは二つのマグカップを持ってテーブルにやって来た。そして、一つを望月氏の前に差し出すと、自分は残りのマグカップを持って望月氏の隣に座った。
「ありがとう」
そう言って、望月氏は熱いコーヒーを一口飲んだ。そして、一瞬、奥さんにレコードの話の続きをしかけたが躊躇し、しかたなく目をテーブルの上に落とした。そこには今朝届いた町の情報紙『四ツ葉町新聞』が畳まれたまま置いてあった。『四ツ葉町新聞』は毎週土曜日に発行され、この町に関する雑多な記事を掲載しているのである。望月氏は胸ポケットから丸眼鏡を取り出し、新聞を広げて読みはじめた。
 これで喋る者はいなくなった。望月氏のダイニングキッチンに、休日らしい静かな時間が流れはじめた。レコードから流れるピアノの音の合間に、新聞をめくる乾いた音がパーカッションのように聞こえるだけだった。そして、やはりレコードはいくら回っても円のままで、それはこの穏やかな時間が永遠に続く事を暗示しているようであった。

 ところが、この静寂は望月氏自身によって破られた。
「ナニィーーーーーッッッ」
甲高い叫び声が部屋に響いた。奥さんと娘は驚いて望月氏を見つめた。望月氏は新聞を開いたままワナワナ震えていて、目を眼鏡のレンズからはみ出すほど大きく見開き、新聞の一記事を凝視していた。
「どうしたんですか」
奥さんが尋ねた。望月氏は震える声で「これを見てごらん」と言って、奥さんの顔に新聞を突きつけた。近すぎて何も見えなかった奥さんは、望月氏から新聞を取り上げると、割と澄ました声でその記事を読みはじめた。
「美術館に盗賊現る」
記事はそんな見出しで始まっていた。奥さんは朗読を続ける。
「四ツ葉町美術館に謎の盗賊が出現した。事の起こりは一昨日の閉館後。作業中の職員が展示室で盗賊を発見した。事件の詳細は伏せられているが、どうやら、この盗賊は未だ館内に潜伏しているもよう。館長は来館者の安全が保証できないとして、昨日から美術館を休館にすることを決めた」
 奥さんは記事を読み終えると、「ふーん」と鼻で唸り、それから落ち着いた手つきでマグカップを口に運んだ。その横で望月氏は怒りを噴出させている。
「許せん。美術品を盗むなど断じて許せん。あの美術館はこの町の誇りなんだ。小さな美術館だが、館長さんの優れたセンスにより、有名ではないが本当に素晴らしい作品が集められているんだ。それを盗もうなんて絶対に許せん」
「そうですね」
奥さんはあまり興味がないらしい。その態度にも望月氏は腹を立てた。
「わかっているのか。この町の美術館の話なんだぞ」
「わかってますよ。よく連れていかれるんだから。それに私のエプロンも、この子の着てるワンピースも、どっちもあそこのおみやげ屋で買ったものだし」
望月氏は憤慨した。
「おみやげ屋とはなんだ。ミュージアムショップと言いなさい。ふつう絵葉書とかしか置いてないのに、洋服を売るなんて意欲的じゃないか」
「知りませんよ。洋服は洋服屋で買えばいいんですよ」
そう言って、奥さんは自分の赤い水玉模様のエプロンをつまらなそうに見つめた。水玉は手書き風で、大きさや形がひとつひとつ微妙に違っている。
「それはジョルジュ・ポンポリアンという画家の絵をプリントしてるんだ。幾何学的な模様の中に、あえて手作業の痕跡を残すことで、人間と機械文明の間にある緊張を描き出し、その上で、えー、その上で…なんだ?…とにかく!描き出しているんだ!」
奥さんは何も言わなかった。どっと疲れたという表情を浮かべると、コーヒーのマグカップを手に取り、元の静かな時間へ戻ろうとした。ちなみに、娘はとっくに話を聞くのをやめ、二つ目のドーナツを頬張っている。
 しかし、望月氏はそんな二人へ、いつになく真面目な声で言った。
「出かけるぞ」
望月氏はひとり立ち上がった。
「どこに」
奥さんが聞いた。
「どこにって、決まってるじゃないか。美術館に行くんだよ」
「何言ってるんですか。休館だって書いてあったでしょ」
「違う!絵を見に行くんじゃない。助けに行くんだ。きっと今ごろ、みんな盗賊に怯えているはすだ。美術愛好家として、こういう時こそ力を貸さなければならないんだ!」
望月氏の目は燃えていた。そして、戸惑う奥さんと、ドーナツがあればどこでもいい娘をせき立て、慌ただしく家を飛び出してしまった。レコードも回転を止められ、人のいなくなった部屋に、ようやく休日らしい静かな時間が流れはじめた。

つづく

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