美術愛好家たち
それから三十分もしないうちに、望月一家は美術館に到着しようとしていた。小太りで足の遅い望月氏がトコトコ駆けていく後ろで、背の高い奥さんは普通に歩いている。望月氏が振り返って言った。
「ママ、ちゃんと走りなさい」
「だって、私が走ったら、あなた置いてけぼりですよ」
そのうち、彼らの行く手に若葉の茂る小さな木立が見えてきた。そして、その木々の合間から白っぽい建物が透いて見えた。それこそが望月氏の愛する四ツ葉町美術館である。その建物は美術館というより、中で黄色いエプロンをつけたおばあさんが、オーブンでケーキやクッキーでも焼いていそうな、かわいい石造りの小さな洋館だった。
「ああ、愛しの四ツ葉町美術館」
望月氏は息で言葉を途切れさせながら語りはじめた。
「近頃は、ゼェゼェ、芸術の特殊性を強調して、ゼェゼェ、奇抜な建築デザインにしたり、ゼェゼェ、理解し難いモニュメントなどを置くとこで、ハァハァ、芸術の特殊性を強調し、ハァハァ、あれ、えー?えー?フゥーッ」
望月氏の解説は途中でついえてしまったが、要するに、この美術館は威張らないから親しみやすいということだ。三人の胸中は様々だったが、いちおう形としてはまとまって、芸術の香気漂う小さな森の中へバタバタと足を踏み入れて行った。
建物の前は芝生や花壇のある庭となっており、その中心ではブロンズ像の少女がこの美術館の一員として、穏やかな笑みで来客を出迎えていた。その少女像の周りには、すでに数人の人物が集まっていて、何やら不安そうな顔で話し合っていた。
望月一家が彼らに近づくと、その中の一人、チェックのシャツを着た中年の男性が望月氏を見つけて声を上げた。
「ああ、望月さん。やっぱり来て下さったんですね」
望月氏は息を切らせながらも熱っぽく言った。
「もちろんですよ、小平さん。新聞を読んで、いてもたってもいられなくて、やって参りました」
小平氏は嬉しそうに、肉でパンパンに張り詰めている望月氏の肩を叩いた。一方の小平氏は大変な痩せ型で、まるで提灯とその中のロウソクみたいに、シャツと体の間に大きな隙間ができている。
と思ったら、今度はでっぷり太ったマダムが集団の中からやって来て、望月氏の前に、ずんとその大きな姿を現した。
「まぁ、すごい汗ですこと。これをお使いなさいな」
マダムはそう言って、紫色のハンカチを望月氏に差し出した。
「これは失敬。ろくに準備もせず家を飛び出したもんで。しかし、大曲夫人もおいででしたか」
ハンカチと同じ色のボレロスーツを着こなした大曲夫人は、上品な口調におおげさな身振りを交えて喋りだした。
「もちろんですわ。この町の一大事ですもの。私たちの愛する美術館の危機というのに、家でじっとしていられましょうか。わたくし、二時間も前にここへ来ましたのよ。そしたら、まだ誰もいらっしゃらないから、わたくし、近くのカッフェでコーヒーをいただいておりましたの。そしたら、今の季節、花がきれいでしょう?わたくし、カッフェにいるのがもどかしくなって、こちらへ来て花壇の回りをぐるぐる歩いておりましたの。そしたら…」
夫人のわずかな息継ぎの間を捉えて、小平氏が言葉を挟んだ。
「他にもいろいろな人が来てるんですよ」
小平氏は少女像の下を指差した。
「あの新聞記事を書かれた記者さんに、近くの交番のお巡りさん。そして、画家で美術学校の教師もなさっている黒渕先生と、その生徒の巽君です」
紹介された通り、そこには四人の人物が立っていた。鳥打ち帽を被り、手帳に鉛筆でメモを取っている新聞記者。制服姿の大柄な警察官。和服を着て、難しい顔であごひげを撫でている黒渕先生。そして、その傍らで、大きなスケッチブックを両手に抱えた二十歳くらいの巽君。全員が美術館の事が気になってやって来たらしい。集団は一つの大きな輪になり、短い挨拶を交換した。
やはり話題はすぐ盗賊の事に移った。
「まさか自分の町の美術館に盗賊が現れるなんて、夢にも思いませんでした」
望月氏が率直な感想を述べたが、それはみんな同じ気持ちだった。望月氏は新聞記者に尋ねた。
「しかも、盗賊はまだこの美術館に潜伏してるという話でしたよね」
たしかに記事にはそう書かれていた。しかし、自分でその記事を書いたはずの新聞記者は、少し困ったような顔を浮かべて答えた。
「ええ、そう聞いてはいます。でも、私、それって変じゃないかと思ってるんです。私もこんな事件はじめてだからよく分からないけど、ふつう盗賊って、物を盗んだらとっとと逃げるはずでしょ。現場に長居してたら、そのぶん捕まるかもしれないわけですからね」
全員が相槌を打った。
「あの、お巡りさん、美術館の方から盗賊を捕まえてくれって話は来てないんですか」
記者が尋ねると、お巡りさんはピシッと背筋を伸ばし、ハキハキと質問に答えた。
「はい、そのような要請は来ておりません。自分も今朝『四ツ葉町新聞』を読んで事態を知った次第でありまして、何か協力できることはないかと思って、現場に駆けつけたのであります」
「そうなると、盗賊の目的は何なのですかな」
じっと話を聞いていた黒渕先生が、威厳ある声で話しはじめた。
「美術品の盗難というのはよくある話だが、館内に居座るというのは聞いた事がない。美術館の方から警察に何も言ってこないというのも不自然だ。もしかすると、我々の知らない事実が隠されているのかも知れませんな」
有名画家である黒渕先生の言葉は重く、その場の空気に緊張が走った。巽君はその間もスケッチブックを大事そうに抱え、黒渕先生の脇に控えていた。
みんなの緊張をほぐそうとしてか、小平氏が妙に高い声と笑顔を振りまいた。
「とりあえず、館長さんに話を聞こうじゃありませんか。そして、我々に手伝える事があったら協力しましょう。みんなそのために来たんですから」
大曲夫人も、その大きな手をベチンと打った。
「そうですとも。私たちは芸術を愛する者として、できる限りの事をいたしましょう」
全員が大きくうなずいた。