館長の話
するとその時、美術館の扉が音もなく開いた。観音開きの扉は徐々に館内の暗がりをあらわにしていき、その中に白髪の老人と二人の若い男女の姿を浮かび上がらせた。それは、この美術館の館長と二人の職員であった。四ツ葉町美術館は、この三人によって運営されているのだ。
館長は、暗闇の中から出て来たことも手伝って、たいへん疲れているように見えた。しかし、少女像の下に集まった人達を見とめると、口元に驚きと微笑を浮かべた。
「皆さん、集まって下さったんですね。どうやら私の願いが通じたようだ。もう我々の手には負えないと思い、ちょうど今、誰かに相談しようと出て来たところなのです」
望月氏をはじめ、少女像の下に集まっていた人達は館長の元に駆け寄り、次々に質問を浴びせた。
「盗賊が出たって本当ですか」
「今も館内にいるのですか」
「美術品は無事ですか」
はじめ、館長は彼らの勢いに面食らっていたが、やがて静かに二三度うなずくと、小さな咳ばらいを一つしてから話しはじめた。
「いったい、どこから話せばいいものか。と言いますのも、今回の事件は我々にも経験のない奇妙な事態でして、どうにも一言で表すことができないのです。そこで、何が起きたのか、そのあらましを初めから説明した方が御理解いただけると思うのですが、聞いていただけますかな」
一同は首を縦に何度も振った。館長は目を閉じ、一つ一つ思い出すように言葉を紡ぎ出した。
「あれは二日前、つまり木曜日の閉館後の事でした。ご承知の通り、ここは小さな美術館で、展示室は一つしかありません。閉館後は二人の職員が展示室の見回りをして、翌日の開館に備えるのですが、その日はいつもと事情が違っていました。と言いますのも、その日、この美術館に新しい絵が届いたのです。
閉館後、私も含めて三人で新しい絵の展示を行いました。新しい絵は頑丈な木の箱に入っていたのですが、まずはそれから取り出し、絵に傷や汚れがないか簡単に確かめてから、壁へ設置しました。もちろん、私は事前にその絵を見ておりました。ヨーロッパの田園風景を描いた美しい作品です。ですが、壁に絵が掛けられたとき、私の心には初めて見たとき以上の感慨が湧いてきました。今でも目に浮かびます。そこには、美しい緑の風景が額縁から溢れる如く、どこまでも広がっていました」
館長は頭の中に、その絵の風景を思い描いているようだったが、少しの間をおいて、話の続きを語りはじめた。
「私はこの絵が皆様にも喜んでいただけると確信いたしました。有名な作品ではありませんが、この美術館にふさわしい、愛すべき作品だと思ったのです。設置が終わってからも、我々は黙って絵を眺めておりました。
ところが、しばらくして、二人の職員が絵の中に何かを発見して騒ぎはじめました。二人は絵の同じ場所、丘の上に立つ大きな木の根元を指差していました。はじめは絵画の技法や表現のことについて話しているものと思っておりましたが、どうも様子が違います。二人の顔には、明らかに恐怖の色が浮かんでいたのです。そこで私も絵に近付き、目を細めて二人が指差す場所を凝視しました。するとそこには、全く見覚えのない、奇妙な格好をした一人の男が描かれていたのです。私は驚きました。と言いますのも、この絵に人物は、いっさい描かれていなかったはずなのです。私たち三人は互いに何度も顔を見合わせました。しかし、みんなこの男に見覚えなどなく、黙って首をかしげるばかりでした。
私はもう一度、男の姿をよく見ました。男は顔が隠れるほど汚らしい髭をいっぱいに生やしており、穿き古された粗末なズボンに革のサンダルを身につけていました。それなのに、金銀の刺繍や宝石に彩られた黒いガウンを肩に引っ掛け、そうかと思えば、頭には道化師の被る白黒のとんがり帽子を被っていたりと、なんともちぐはぐな格好をしているのです。男は右手に赤ワインの入ったグラス、左手に骨付き肉を持ち、まるでピクニックでもしているかのように、木にもたれて、くつろいでいました。
私は年甲斐もなく狼狽いたしました。こんな男は絶対に描かれていなかった。現に若い職員も驚いている。だとすると、後から描き足されたのだろうか。いや、そんなことをするはずはない。色々な事が頭の中を巡りましたが言葉にならず、私はのどかな風景に突然あらわれた奇妙な男を、ただ唖然として眺めることしかできませんでした」
館長はここまで話し、一度おおきく息を吐き出した。館長の不思議な話に引き込まれていた一同も、ようやく我に帰り一息ついた。しかし、館長はすぐに話を続けた。声のトーンが一段、厳しくなった。
「しかし、本当に驚くべきはその後でした」
そう言って、館長はずっと閉じていた瞳をカッと見開いた。
「なんと、その男は我々の目の前で、右手に持っていたワインをぐいと飲み干したのです」
「ええっ!?」
思わず全員が声を上げた。
「絵の中の人物が動いたのですか」
「見間違えではありませんか」
「絵の具が剥がれたりしたのでは」
一同が口々に尋ねると、館長は何だか申し訳なさそうに答えた。
「確かに動きました。まことに信じられない話ですが」
二人の若い職員も口々に主張した。
「本当です。僕も見ました」
「私たちの言うことを信じて下さい」
一同は黙り込んだ。信じる信じない以前に、事態をうまく飲み込めていなかった。
沈黙を破るように、館長が話を再開した。
「我々もそれを見たときは驚いて、しばらくは絵の前に突っ立っておりました。すると、突然、絵の中の男が我々の方を向き、その顔をこちらに晒したのです。異様に高い鼻は細く尖り、お酒のせいか、薄汚れた肌はほのかに赤らんでいるようでした。帽子からはみ出す前髪で目は隠れて見えませんでしたが、その男は毛むくじゃらな髭の中で、人を食ったような笑みを口元に浮かべたのです。その時、この男は間違いなく絵の中からこちらを見ていると悟り、私は背筋が凍る思いをしました。
男は持っていた骨付き肉にかぶりつくと、我々が怯えるのを楽しむように、ゆっくりと骨まで舐めまわしてから、その骨を草の上に放り投げました。それから、男は古いワインボトルを取り出しました。男はグラスに赤い液体を注ぎだしたのですが、その時、私はようやく館長としての立場を思い出しました。「良からぬことが起きている」。そう感じた私は、この男を我々から遠ざけたい一心で、職員に絵を箱へ戻すよう指示しました。二人が即座に額縁に手を掛けました。しかし、その瞬間、絵の中から「ケケケ」という笑い声が聞こえてきたのです」
一同はゾッとした。絵の中の男の笑い声が、自分たちの耳にも聞こえた気がした。
「我々は動きを止めました。すると男はグラスを地面に置き、物ぐさそうに立ち上がると、今度はガウンのポケットからマッチ箱を取り出し、中から一本取り出して火をつけました。そして、一度それを我々の方にかざしてから、再び「ケケケ」と笑い、そのマッチを指で弾いて地面に投げ捨てたのです。にわかに草群から黒い煙が立ち昇りました。男は口元に笑みを溜めたまま、徐々に火が大きくなるのを眺めています。
ずっと男の意図が分からなかった私ですが、その時、ようやくそれを理解しました。私はとっさに、絵をしまおうとしている職員の手を額縁から引き離しました。すると、それを見た男は狡猾そうに片方の口角を吊り上げ、グラスのワインを草群に撒いて火を消しました。あのまま放っておくと、描かれた風景が焼け野原となっていたことでしょう。
つまり、この男は我々を脅迫していたのです。絵を片付けると、この風景を破壊すると警告していたのです。絵の中の男は、我々がそれを理解したのが満足だったようで、また木に寄り掛かって寝そべり、空になったグラスに改めてワインを注ぎました。私は一旦この場を離れた方が良いと思いました。落ち着いて事態を整理すべきだと考えたのです。不安ではありましたが、我々は展示室を出て、ひとまず事務室に引き下がりました」
話を聞き終えた一同は、先程よりは冷静になっていた。しかし、それは事態がより深刻だと理解したからでもあった。絵に被害を与えるという行動は、美術愛好家たる彼らの胸に重くのしかかった。
「これが、この美術館に起きた事件のあらましです。我々は、とんでもない男に美術館への侵入を許してしまいました。この男は美術品を盗む盗賊ではなくて、美術品の中にいて、それ自体を乗っ取る盗賊なのです」
お巡りさんが控え目に質問した。
「その後はどうされましたか」
「三人で話し合った結果、このままでは、お客様を入れるわけにはいかないということで、翌日からの休館を決定しました。それと、今日の『四ツ葉町新聞』に、新しい絵の記事が載る事になっていましたから、それを記者さんに頼んで、休館のお知らせに差し替えていただきました。展示室へは数時間おきに誰かが入り、男の様子を見張っております。男は絵の中を移動したりはしていますが、今のところ目立った悪さはしていないようです」
この時、ついに溜まりに溜まった感情を抑えきれずに騒ぎ出した者がいた。望月氏である。
「許せん。美術品を破壊し、人々の喜びを奪うなんて絶対に許せん」
望月氏は顔を真っ赤にしてわめき散らした。
「館長、私はこの美術館のためなら何だっていたします。まずはその盗賊に会って、ひとこと文句を言ってやりたい」
たしかに誰もがそうしたかった。しかし、絵を人質に取られているのに、盗賊を刺激するのは危険でもある。
館長はしばらく考え込んでいたが、静かにこう切り出した。
「この美術館は町の皆様の芸術を愛する気持ちで成り立っています。ですから、我々にはその熱意を受け止める義務がある。それに、我々だけでは知恵が足りず、ちょうど誰かに相談しようとしていたところでした。ここに集まって下さったのは、この美術館を愛する方たちだ。名案が浮かぶかもしれない。皆様、協力していただけますか」
一同はうなずいた。
「それでは、展示室に御案内いたしましょう。御自身の目で盗賊の姿をご覧下さい。ただし、絵が人質に取られています。くれぐれも盗賊を刺激しないようにお願いします」
「もちろんです」
一番怪しい望月氏が元気よく答えた。
それから、四ツ葉町の美術愛好家たちは館長に率いられ、奇妙な盗賊の潜む館内へ、一列になって入って行った。