盗賊の潜む絵
十二名の人間が一斉に入ると、さすがに小さなロビーは狭苦しく感じられた。電灯は消され、窓からの光のみがその小部屋を照らしていた。ロビーは至って簡素で、受付と待合用のソファ、それとミュージアムショップなり、おみやげ屋なりと呼ばれている小さな売り場があるだけだった。そして、受付の側には重厚な扉があり、そこから展示室に入れるようになっていた。
「では、これから展示室に入ります。例の絵に案内しますので、私の後に付いて来て下さい。もし、何か問題が起きたときは、私の指示に従って行動してください」
館長がそう言って扉を開けた。幾度となく来館している美術愛好家たちであったが、この時ばかりは初めて来たときのように緊張し、館長に続いて、おそるおそる展示室へ足を踏み入れた。
展示室は大きな四角い部屋で、周囲の壁に絵が掛けてある。各壁に三枚ほど、合わせて十枚くらいの作品が展示されていた。一行はギュッと寄り集まると、小さく身を屈め、左右をキョロキョロ伺いながら館長の後を付いて歩いた。
館長は至極冷静な足取りでいくつかの絵を通り過ぎたが、やがて一枚の絵の前で立ち止まった。館長は振り向いて言った。
「この絵が新しく展示した作品で、盗賊が潜んでいる絵です」
みんなの動きがピタリと止まった。そして、とても恐ろしいものを見るように、顔をゆっくりと絵の方へ向けた。
しかし、そこにあったのは何の変哲もない、小さな風景画だった。画面上方に描かれた丘には木々や草が茂り、下方には小川が流れている。それ以外には空しか描かれていない広々とした風景で、一見した限りでは、盗賊がいるようには見えなかった。
一同は絵に近づいた。この絵のどこかに盗賊がいる。彼らは目を凝らして盗賊の姿を探した。木の根元、川のほとり、丘の斜面。見開かれた数多の瞳が絵の隅々を精査した。しかし、盗賊の姿はどこにも見当たらない。彼らはじりじりと絵に歩み寄った。
すると、絵まで数十センチという距離にまで接近したところで、一同は、丘の上の茂みがわずかに動いているのを発見した。中に何かがいるようで、ガサガサという音まで聞こえてきた。視線が茂みに集中した。全員が身を乗り出し、前の人に覆いかぶさり、さらには首を亀のように長く伸ばして画面に近付いた。
そして、絵に向かって伸ばした彼らの首が、もう限界まで伸びきったその時、茂みが大きく揺れたかと思うと、中から男が勢いよく飛び出してきた。絵の前にいた全員が、驚いて後ろにひっくり返った。茂みから飛び出したのは例の盗賊だった。このイタズラ好きの盗賊は、茂みに隠れ、鑑賞者が近づくのを待っていたのだ。
男は見事に転んだ人達を見て、思いどおり驚かせたのが愉快だったのか、体を小刻みに揺さぶりながら、「ケケケ」と笑った。一同はすぐさま起き上がり、再び絵の前に立った。絵の中には、はじめ見た時には居なかった盗賊が、たしかに出現していた。髭もじゃで、貴族のようなガウンを着て、革のサンダルや道化師の帽子を身につけ、むさ苦しい前髪で目までが隠れているという、館長の話どおりの男が木に寄り掛かって立っていたのだ。
そして、その男は確かに動いていた。注目されるのが、まんざら嫌でもない様子で、頭を掻きむしったり、異様に高い鼻を撫でたり、あるいは気取って二三歩うろついたりもした。
「これがこの美術館に現れた盗賊です」
脇に立っていた館長が言った。
「信じられない」
「本当に動いてる」
誰もが盗賊の動き一つ一つを目で追いかけ、その度に驚嘆の声を漏らした。
しかし、どういうわけか、その中に望月氏の声だけは聞かれなかった。なぜなら、望月氏は床にひっくり返ったままだったのだ。転覆した亀みたいに、手足をジタバタさせ、起き上がろうと必死にもがいていた。周りの人がようやくそれに気付いて、望月氏を引き起こした。
やっと起き上がった望月氏は、恐怖に身を震わせながら叫んだ。
「危険だ。こいつは危険だ」
ひっくり返ったのは盗賊のせいだとしても、起きあがれなかったのは自分のせいである。なのに、過剰なまでに恐怖におののく望月氏は滑稽ですらあった。奥さんは恥ずかしくて顔を覆った。
望月氏のおかげで少しだけ場が和みかけたが、ただ一人、黒渕先生だけは真面目な顔で館長に話しかけた。
「いや、望月氏の言う事は、あながち冗談でもありませんぞ。この男は茂みに隠れて我々を驚かそうとした。明らかな悪意があったのです。このままにしておくと、絵だけでなく、見る人にも被害が出るかもしれません」
「もう出てます」
望月氏が腰を押さえながら言った。
「私のような被害者をこれ以上出さない為にも、いち早く、この盗賊を追い出しましょう」
館長は困惑した。
「しかし、どうやって」
それには望月氏ではなく、黒渕先生が答えた。
「私は、この絵はもう片付けてしまったほうが良いと思う。たしかに絵に被害が出るかもしれない。しかし、このままにしておくと、盗賊が他に何をしでかすか分かりません。まだ被害の出てない今のうちに、この絵を隔離してしまったほうが良いと思います」
お巡りさんも黒渕先生の意見に賛成した。
「自分もそれが良いと思います。このままでは、美術館を開けることができないのであります」
記者もそれに続いた。
「今朝、うちの事務所に読者からたくさんの電話がかかって来たんです。美術館は大丈夫かって。早く開館して欲しいと思っている人がたくさんいますよ」
館長は彼らの意見を沈痛な面持ちで聞いていた。しかし、それはやがて、晴れやかな笑顔に変わった。
「皆さんのおっしゃる通りですね。この絵を片付ける事にいたしましょう。美しい絵なので残念ですが、見る人に被害が出ては意味がありませんからね。この絵が入っていた箱を持って来ましょう」
それから望月氏にも声をかけた。
「お怪我はございませんか」
望月氏は急に恥ずかしさが込み上げて来て、
「大丈夫です」
と、取り繕った。
それからすぐに、二人の若い職員が箱を取りに行った。箱が到着するまでの間、一同は片付けられる事になった絵を眺めていた。美しい風景と奇怪な盗賊。大騒ぎをしたが、これで見納めと思うと名残惜しい気もした。その絵の中で、外の会話を聞いていたであろう盗賊は、木に寄り掛かったまま腕を組み、髭の中に笑みを浮かべることもなく佇んでいた。