『絵の中の盗賊』

絵の中の盗賊

盗賊の秘密

 やがて、二人の若い職員が絵の入っていた箱を持って来た。すると、館長は無言で、すたすたと絵に歩み寄り、未練を振り払うように即座に絵を壁から外す作業に取りかかった。一同は絵の側に集まった。そして、片付けられてしまう絵を、そして絵の中の盗賊を目に焼き付けた。
 しかし、絵がついに取り外されようとした時、ずっと木に寄り掛かって動かないでいた盗賊が急に走りだし、ものすごい速さで画面の奥から手前に向かって丘を駆け降りはじめた。館長は驚いて手を止めた。それでも盗賊は全速力でこちらへ近付いて来る。周りで絵を見ていた者たちも気になって、ぐっと絵の近くに寄った。
 すると、盗賊は丘を降りてスピードが最速に達したところで思い切りよく両足を踏み切り、前方、つまり絵の前の人達の方へ勢いよくジャンプした。水泳の飛び込みみたいに、両手を伸ばして宙に舞ったかと思うと、一瞬、盗賊の姿が画面いっぱいに拡大されたが、すぐに消えた。そして、それと同時に、絵の前に集まった人達の合間を黒っぽい物体が高速で通り抜けた。人々はとっさの事で身構える余裕もなく、黒い物体が通り過ぎたあとも、頬に風の余波を感じながら立ち竦むだけだった。一同は改めて絵を見た。そこに盗賊の姿は無かった。何の変哲もない、のどかな風景が広がっているだけだった。
 盗賊の消えた絵の中からは、小川のせせらぎや、風にそよぐ木立の葉擦れの音が聞こえるようだった。しかし、呆然とする人々の背中へ突き刺さるように、後方から、あの「ケケケ」という笑い声が聞こえてきた。全員がギクリとして、背筋に嫌な汗をかいた。一同が振り向くと、いっそう大きくなった笑い声が向かいの壁あたりから聞こえてくる。全員が部屋を横切って、ただちに声のする場所へ向かった。
 声の出所は、反対側の壁にかけられた一枚の絵だった。それは、この美術館の常連なら誰もが見慣れている、果物を描いた静物画だったのだが、絵の前に立った一同は、そこで信じられない光景を目の当たりにした。今度は、その絵の中に盗賊がいたのだ。
「こっちにいる!」
「移動したんだ!」
この絵は中央に林檎や桃などが置かれた机があり、その横に椅子が置いてある。盗賊はその椅子に悠々と腰掛け、慌てふためく人達を見て、ほくそ笑んでいたのだ。
 ただ、その姿は先程までの姿と全く同じではなかった。同じ人物であるし、服装なども変わってはいない。しかし、さっきの絵では数センチメートルに過ぎなかった盗賊が、この絵では画面いっぱいにその全身を描き出されていた。
「大きくなってる!」
みんながその変化に驚いた。大きく描かれている分、この絵の中では、盗賊の髭の一本、皺の一筋までも細密に描画されている。前髪の奥に隠れた瞳も、髭の中で吊り上がった口角も、そして、その邪悪ささえも拡大されているようだった。
 黒渕先生が画家として、この現象を冷静に分析した。
「きっと絵の縮尺に合わせて変化したんですな。先ほどの絵は広大な風景を描いたものだったので、人間はその中では小さな点景に過ぎなかった。しかし、この絵は室内を描いた絵だ。その中に人間がいるとなると、これくらいの大きさになるでしょう」
 それに、盗賊は縮尺だけでなく、色調やタッチもこの絵に馴染んでいた。この絵を支配する暗い色調に合わせ、盗賊の姿も落ち着いたシックな雰囲気に変化していたのだ。この絵は全体的に暗い色調ではあったが、机の上に転がる果物には微かな色味が潜んでいた。その色が浮かび上がって来るまで、じっと絵を眺める。その静かな時間にこそ、この作品の愉しみは秘められていたのだが、盗賊の登場によって、そんな気分ではとても見られない過激な絵に変わってしまっていた。

 一同が絵の前で呆然としていると、盗賊は少々退屈したのか、右手をぶらぶらさせながら机の上に伸ばした。その指には黒ずんだ金の指輪が何重にもはめてあった。盗賊は垢で汚れたその手で、机の上にモチーフとして置かれていた桃を鷲掴みにした。そして、その桃をゆっくりと口へ運んでいった。
「ヤメロォーーーーーッッッ」
盗賊の行動を見て、小平氏が叫んだ。盗賊は口を大きく開けたところで動きを止めたが、その代わり、不敵な笑みを口元に浮かべた。小平氏は絵の前に歩み出ると、目に涙を浮かべて懇願した。
「やめてくれ!これは私の大好きな絵なんだ!」
この絵は小平氏いちばんのお気に入りだった。彼はこの絵を見るため、毎週、美術館に通っているのである。
「頼む!頼むから、絵の中の果物を食べないでくれ!」
 小平氏の思いが通じたのか、盗賊は口元から桃を離した。しかし、今度は桃を手の上に乗せると、舐めるような目つきで桃のあらゆる側面を眺めまわした。そして、桃の表面のうちで最も良く熟れ、鮮やかな紅色に染まっている部分を見つけだすと、そこに自らの髭まじりの肌をあてがい、表面の産毛の感触を愉しむように、何度も何度も頬ずりした。
 これを見て、小平氏の理性は吹っ飛んだ。
「私の桃に何をするーーーーーッッッ」
小平氏は絵の中の盗賊に向かって躍りかかった。みんなが必死に止めたが、なおも小平氏は画面の向こうの盗賊に掴みかかろうとしていた。
 盗賊は愉快そうに「ケケケ」と笑うと、桃を机の上に戻し、悠々と椅子から立ち上がった。そして、二三歩あとずさりしてから、前の絵でしたのと同じような格好で、再び前方へジャンプした。またも盗賊の姿は絵から消え、小平氏の頭上をかすめながら通過した。
 一瞬の驚きのあと、室内を嫌な静寂が包み込んだ。盗賊が絵から飛び出したということは、また別の絵に入ったのだろうか。一同がそんなことを考えていると、あの「ケケケ」という笑い声が再び部屋にこだました。
 一同は声のする絵に向かった。それは花瓶いっぱいに活けられた美しい花の絵だった。花は活けられたというよりも、無造作に突っ込まれたという具合で花瓶に挿されていたが、それがかえって奔放で、厭味を感じさせないところにこの絵の魅力があった。
 この絵は大曲夫人のお気に入りだった。夫人はいち早く絵の前に駆けつけると、「キャーキャー」と騒ぎはじめた。すぐに他の人も集まってきた。その絵の中では、淡い色使いと優美なタッチに姿を変えた盗賊が花瓶の背後に立ち、抱きしめるように花の香りを嗅いでいた。花弁が固い髭に触れられて弱々しく俯いた。
 この絵を熱烈に愛してやまない大曲夫人は、「やめて!」と叫び続けたが、盗賊が胸いっぱいに花の香気を吸い、その代わりに、いかにも酒臭そうな息を花に吹きかけるのを見ると、やはり理性を失い、
「何すんのよーーーーー!」
と、普段の上品さを失って盗賊へ突進した。その姿は紫の怪獣に他ならなかったが、お巡りさんの手によって、何とか絵への体当たりは免れた。
「はなして、はなして」
暴れる大曲夫人に、それを取り押さえるお巡りさんたち。まだ盗賊へ罵声を浴びせる小平氏。望月氏は意味もなく右往左往していた。
 このパニックを見兼ねて館長が叫んだ。
「皆さん、いったん外へ出て下さい。退散です!」
一同は揉みくちゃになりながら、何とか展示室の出口までやってきた。一同はダストシュートに放り込まれたゴミのように、ひとつの塊になって展示室の外へなだれ出て行った。その様子が面白かったのか、人の消えた展示室の中で、「ケケケ」という勝ち誇った笑い声が響いた。

つづく

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