『絵の中の盗賊』

絵の中の盗賊

作戦決行

 二時間後、十二名の美術愛好家は再び少女像の下に集まった。一人一人が決意を秘めた表情で居並ぶ中、なぜか彼らの頭上には、三本の虫捕り網が空高く聳えていた。持ち主は望月一家の三人である。ちなみに、望月氏はTシャツに着替えていた。みんなが奇異の目で一家を見た。その視線に耐え兼ねて奥さんは俯いていたが、望月氏はなぜ自分が見られているのか分からないらしかった。
「皆さん、どうされました?私の顔にキャビアでも付いてますかな。ははー、分かりましたよ。なぜ皆さんが私を見るか。このTシャツですね。動きやすいように家で着替えてきたんですよ。いいでしょう、このTシャツ。『夏の海辺』という絵がプリントされているんです。もちろん、ここのミュージアムショップで買いました」
みんなの気になった点はそこではなかった。虫捕り網で盗賊を捕まえられるのか甚だ疑問だったが、あまり深く追求しないことにした。
 望月氏の奇行で気が抜けてしまったが、記者が盗賊捕獲作戦について話し出すと、再び一同の顔に緊張が戻った。
「盗賊の移動中を捕らえるといっても、無闇に追いかけたのでは捕まえられません。そこで、館長やお巡りさんと相談して作戦を考えました。一人一人に役割があるので、よく聞いておいてください」
全員が身を乗り出して、記者の作戦に耳を傾けた。
「ここに十二名います。館長、二人の職員さん、黒渕先生、巽君、お巡りさん、小平氏、大曲夫人、望月氏、その奥さんと娘さん、そして私。ただ、望月氏の娘さんは、お母様と一緒に行動して下さい。となると、十一名。そして、今、展示室に掛けられている絵は全部で十枚です。十一名のうち、館長を除いた十名には一人一枚の絵を割りふりますので、展示室に入ったら、自分の絵の前に移動して下さい。そこがその人の持ち場です。全員が持ち場に着いたら、自分の絵の中に盗賊がいないか確かめて下さい。必ず、誰かの絵の中に盗賊がいます」
一同はゴクリと唾を飲んだ。
「もし自分の絵に盗賊がいたら、みんなに合図をして下さい。焦らず騒がず、両手を大きく振ってください。そうしたら、館長が収納用の箱を持ってその絵に向かいます。そして、館長は絵を片付けようとする。すると、盗賊は絵ごと自分も仕舞われてしまうのを嫌って、別の絵に飛び移るでしょう。その行き先は残りの九枚のうちのどれかです。どれかは分かりませんが、どの絵の前にも誰かがいます。盗賊の動きは素早いですが、目で追えない速さじゃない。自分の絵に向かって来ると思った方は、その軌道上に入り、盗賊を食い止めて下さい。そしたら、すぐにみんな集まって盗賊を捕らえましょう。もし捕らえられなくて、また絵の中に逃げ込まれたとしても、同じ事を何度か繰り返せばいい」
記者の作戦は即席の割に整然としていて、みんなに希望を抱かせた。
 それから、持ち場となる絵を決めた。望月氏は志願の結果、例のビーナスの絵を任されることとなった。望月氏に限らず、自分の守るべき絵というものを与えられると、誰もが心昂ぶった。そしていよいよ、十二名は列を成して美術館へと行進して行った。心は戦地に赴く兵士の気分だった。そんな盗賊捕獲隊の頭の上で、彼らの旗印として案外ふさわしいかもしれない三本の虫捕り網が、その白いネットを風になびかせ揺れていた。

 館長が再び展示室の扉を開けた。中は物音ひとつしない。記者が、
「では、持ち場へついて」
と小声で言った。全員が身を屈め、足音も立てずに各々の絵に散った。望月氏の愛するビーナスの絵は入口から最も遠い場所にある。もしかすると、既に盗賊に荒らされているかもしれない。そんな不安が頭をよぎった望月氏は、一目散にビーナスの元に駆けていった。
 望月氏は絵の前に立つと、強張った表情でビーナスの姿を眺めた。この絵には、黒く長い髪を降ろした若い女性が描かれている。これから出掛けるところなのか、あるいは誰かを家に迎えるところなのか分からないが、鏡の前で身仕度をしている最中だった。しかし、彼女はそんな大層な格好をしていたわけではない。化粧もしていなかったし、着ているのも簡素な白いドレス。ただ、彼女は手に小さな髪飾りを載せていた。それは銀の土台に珊瑚をちりばめた、ほんの小さな品だったが、彼女は大切そうに視線をその髪飾りに落としていた。その顔は祈るようでもあり、何かを思い出しているようでもあり、瞳は穏やかに珊瑚の淡いきらめきを見つめていた。
 ビーナスは無事だった。望月氏はほっとため息をついた。そしていつも通り、この絵に心洗われた。彼の言葉を借りると、「質朴なのに気高く、そして限りない優しさを秘めた女性」。彼はこの絵に理想の女性像を見る気がして、彼女をビーナスと呼ぶようになったのだった。
 この絵に盗賊がいないということは、別の絵に潜んでいるということである。そうなると、望月氏はこの絵への侵入を阻む立場になる。望月氏は周りを見渡した。しかし、みんな自分の絵に盗賊がいないのを確認したらしく、誰かが合図を送るのを待っていた。館長も部屋の中央で絶えず周囲を見回している。他の絵にも盗賊はいないようだった。
 望月氏は気になって、もう一度、自分の絵を見た。相変わらずビーナスは穏やかな表情で佇み、銀の髪飾りは清楚な輝きを放っている。しかしその時、画面の隅で、髪飾りの輝きとは全く異質な、鈍く、どぎつい金属の光沢がちらついたように見えた。望月氏はそちらに目をやった。それは背後に描かれた窓の辺りだった。窓には床まで届くような長いカーテンが掛かっていたが、外からの光を受けて、全体が白っぽく見えた。望月氏は目を凝らして、たしかに見えた鈍い輝きを探した。
 すると、そうしているうち、カーテンの裏から汚れた金の指輪を何重にもはめた手がニュッと突き出し、布の端を握るように掴んでいるのを見つけた。望月氏は「あっ!」と声を漏らした。よく見ると、光を受けたカーテンには、うっすらと人の影が描き出されていた。
 望月氏は恐怖でたじろいだ。その時、カーテンがはらりとめくれ、その中から、あの不敵な笑みを浮かべた盗賊が姿を現した。望月氏は思わず、「ヒィ」と悲鳴を上げた。盗賊はすでにビーナスの絵に潜んでいたのだ。
 望月氏は盗賊と目が合って、二三歩あとずさりしたが、すぐに記者の作戦を思い出し、慌てて両手をぐるぐる回した。全員が驚いて望月氏に注目した。一気に緊張が高まる中、館長は作戦通り、ただちに箱を持って望月氏の方へ向かった。館長を待つ間、といっても、それはほんの数秒のはずなのだが、望月氏はものすごく長い時間、盗賊と目を合わせていたように感じた。しかし、望月氏は虫捕り網を握りしめたまま、どうしていいか分からず、ただ体を小刻みに震えさせていた。
 すると、それを見た盗賊は、笑みにいっそうの野蛮さを加えると、カーテンの中から、ゆらりと歩み出し、ビーナスの方へ一歩ずつ近付いて来た。
「来るなーーー!」
望月氏の怒号が室内に響いた。しかし、盗賊は歩みを止めることなく、遠近法のために絵の中でその姿を徐々に大きくしながら、ひたひたとビーナスの背後に忍び寄った。
 怒りと恐怖で気が狂った望月氏は、体中の血が一滴残らず集まったのではないかと思われるほど顔を真っ赤にして、手に握りしめていた虫捕り網をブンブン振り回しはじめた。まるでロックギタリストがコンサートで超絶技法を披露する時のように、腰を深く落とし、絵に向かって8の字を描くように、虫捕り網を高速で動かした。
 館長が、
「待って下さい」
と叫んだが、もはや望月氏の耳に入るはずもなく、わけの分からない事をわーわー喚きながら、絵の前で無意味に虫捕り網で空を斬った。その姿があまりに滑稽だったのか、盗賊は手を打ち鳴らして笑っていた。しかし、館長が急いで近付いて来る事に気付くと、二三歩助走をつけてから両足を踏み切り、勢いよく前方にジャンプした。ビーナスの絵から、黒い物体がビュンと飛び出した。
 本当なら、ここで他の人が盗賊を捕らえる作戦だったのだが、みんな望月氏の奇妙な動きに気を取られていたため、自分の絵の前で身構えていなかった。盗賊は高速で室内を横切ると、呆気に取られる小平氏の頬をかすめて、再び果物の静物画へ入り込んだ。小平氏が、
「来たーーー!」
と言って騒ぎはじめた。館長は急いで小平氏の絵に向かった。すると、盗賊はまたビュンと絵を飛び出し、大曲夫人が守る花の絵に向かった。虚を突かれた夫人は、やすやすと侵入を許してしまい、
「キャーキャー」
と叫びながら、絵の前をどしどし走り回った。
 盗賊はすぐに絵から飛び出した。そして、お巡りさんの絵、記者の絵、望月氏の奥さんの絵など、間髪入れずに飛び回りながら、絵の前に立つ人をパニックに陥れていった。館長も、どの絵に向かえばいいか分からず、右往左往していた。静かであるはずの美術館が、かつてない喧騒に包まれた。

つづく

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